『次は――』
 間違えないように、乗り過ごさないようにと、頭の中で何度も唱えていた停留所の名前が聞こえた。ここだ、と思ったときには、すでに誰かの手によって降車ボタンが押されていた。そりゃそうか。このバスに乗っている人たちの多くは、私と行き先が同じだ。わざわざ私一人が気を張っていることはないのに。まだまだ緊張が抜けないなあと、短く息を吐く。
 バスが停留所に停まると、私は膝に抱えていた鞄を手に持ち直した。同じ制服を着た人たちに続いて、降車口へと向かう。真新しい制服は厚紙を一枚挟んでいるかのように硬くて、自然ときごちない動きになってしまう。まるで心と連動しているみたい。
 バスを降りると、潮の匂いを含んだ風が頬を掠めた。ぴんと張り詰めた心にも、少しだけ風が通ったような気がする。うん、やっぱりこの辺りの空気、好きだ。
 私は、晴れて第一志望の陵南高校に入学した。新しい学校、新しい友人、新しい景色。学校のすぐそばには海がある。学年が上がるにつれて教室も上階になるため、三年生の教室からは海が見えるかもしれない。
 昇降口から自分のクラスまでの道のりは覚えた。教室に入り、クラスメイトと挨拶を交わす。そして、始業のチャイムが鳴るまで、まだお互いに探り探り雑談をする。
 チャイムが鳴って、全員が席に座ってからも、教室全体がそわそわと落ち着かない雰囲気に包まれていた。入学してから、まだほんの一週間。みんな同じように緊張しているのかもしれない。ただ、私の後ろの席の男の子だけは、初日からマイペースだったように思う。
 一時間目、プリントを回そうと振り返ると、その彼は頬杖をついて静かに目を閉じていた。……寝てる?

「あの……」

 小声で声をかけ、机を指でとんとんと軽く叩く。大きな体がぴくっと動いて、長いまつ毛が揺れた。

「ん……?」
「起こしてごめんね。これ、今日の授業で使うって」
「おー、わりぃ。サンキュ」

 にこっと人の良さそうな笑みを湛えて、私の手からプリントを抜き取った彼の名前は、仙道彰くん。バスケ部の監督にスカウトされて、はるばる東京からやって来たという。クラスの内外から注目を浴びているけれど、当の本人はそのことをまったく鼻にかけていない。おおらかなのんびり屋さんに見える。バスケをやっているときの仙道くんって、どんな感じなんだろう。あまり想像がつかない。
 そんなことを考えながら授業を受けていると、「こら仙道、入学早々寝るなー」と先生の声が飛んできた。
 


「いいなあ、仙道くんの前の席」

 放課後、空になった仙道くんの席を見つめながら、友達がつぶやく。
 仙道くんは、さっそく女の子から注目を集めていた。背が高い、穏やかな性格、スポーツもできる、となると、女の子が夢中になるのも納得できる。小中学生の頃も、スポーツが得意な子は特に人気があった。どうしてかはわからないけれど、そういうものなんだと思う。

「ねえ、バスケ部の練習観に行かない? バスケ部目当てで入学してきた子たちは、もう練習始めてるらしいよ」

 友達が前のめりに私を誘う。とてもノーと言える雰囲気ではなかった。この後は予定もないし、断る理由は特にないのだけど。

「いいけど、邪魔にならないかな」
「ちょっと覗くだけなら平気だよ。仙道くんが入部したから、全国も夢じゃないって言われてるんだって」

 友達の勢いに気圧されて、私は頷くしかなかった。急いで教科書やノートを鞄にしまい、友達と教室を出る。
 陵南高校バスケ部は、県内で指折りの強豪校だ。近年は、監督がスカウトに力を入れているらしい。スカウト以外でも、バスケ部に夢を抱いて陵南高校を選ぶ子は多いのだろう。
 体育館のそばには、すでに数人の女の子たちがいた。私たちと同じ目的だろうか。
 体育館の中からは、ボールが弾む音とバスケットシューズが鳴る音に混ざって、大きなかけ声が聞こえる。開いていた扉からそーっと覗くと、お目当ての仙道くんは、さっそく先輩たちに混ざって練習をしていた。今は、二つのチームに分かれて試合をしているみたい。

「いたよ、仙道くん」

 友達の腕を引いて、一緒に練習を眺める。
 教室にいるときとはまったく違う雰囲気をまとった仙道くんに、すぐに目が奪われた。先輩たちをものともしない、物怖じをしない動き。仙道くんより背が高くて、随分と体が大きい先輩もいるのに。コート全体を支配しているのは仙道くんだと、素人目でもわかった。
 それに、コートに溢れる熱気がすごい。仙道くんが入部したから全国も夢じゃない、という言葉は、きっと本当なのだと感じた。

「すごいね、仙道くん」
「うん」

 友達は仙道くんを見つめたまま、私の言葉に短く返事をした。大好きな芸能人を見ているかのように、両手をぎゅっと握りしめ、目を輝かせている。こうやって誰かを好きになったり、応援したりできるのっていいなあと思った。
 


 仙道くんや先輩たちが休憩に入り、視線を集中させていた私たちも、ほっと一息をつく。
 隣のコートでは、まだボールとバスケットシューズの音が鳴り響いていた。体育館に着いてからずっと仙道くんのことばかりだったな、と思いながら、初めてそちらに意識を向ける。
 視線の先には、まだこの体育館の雰囲気に馴染んでいない様子の部員が集まっていた。おそらく、全員一年生だろう。すでに両手に収まらない人数がいる。やはり、陵南高校のバスケ部に憧れて入学してきた子は大勢いるようだ。
 ふと、先輩の指示に誰よりも大きな声で返事をして、活発に動き回る男の子がいることに気がついた。他の一年生は見るからに疲れ果てているのに、彼だけは人一倍気合いが入っているように見える。
 なんだか、彼の周りだけひかっている、ような気がした。どうしてかはわからない。でも、そのひかりに吸い寄せられるように、私の視線は奪われていた。仙道くんのときよりも、ずっと強く。

「仙道くん休憩に入ったし、もう帰る? ありがとね、つきあってくれて」

 友達が、仙道くんとは逆の方向を眺めていた私の肩を軽く叩く。もしかしたら、飽きていると判断されたのかもしれない。

「ううん、もうちょっといる」

 自然と口から出てきた言葉だった。私の反応が予想外だったのか、友達は目を丸くしている。

「どうしたの。仙道くんのかっこよさに気がついた?」
「んー」

 肯定とも否定ともとれない生返事をする。仙道くんはたしかにかっこよかった。でも、私がもう少しここにいたいと思った理由は、たぶん違う。
 友達は「あ、休憩終わるみたい」とうれしそうに笑いながら、再び仙道くんに視線を集中させた。「明日、仙道くんに声かけてみようかな」とつぶやいている。
 仙道くんたちが練習を再開してからも、私はさっきの男の子を目で追っていた。
 彼は、たまに足を止めては疲れ切っている部員の肩を叩き、何やら声をかけている。声をかけられた子たちは、気合いを入れ直すように頷く。話している内容までは聞こえなかったけれど、彼が中心となって一年生を盛り立てているのかもしれない。今ここにいる子たちは、きっとみんな同じような夢を持って集ったのだ。まだ入部して数日といえど、彼にとっては大切な仲間に違いない。
 そしてまた、彼は生き生きとコートを走る。あんなに汗をかいて疲れているはずなのに、誰よりも楽しそう。バスケが本当に大好きなんだろうな。
 背が高くて目立っているというわけではない。誰もが目を引かれるような華々しい活躍をしているわけでもない。でも私には、あの男の子が誰よりもきらきらと輝いて見えていた。