「……なんだこれ」

 2泊3日の出張で疲れ果てて帰った夜、シャワーを浴びて寝室の扉を開けると、ふくふくとした真っ白な何かがダブルベッドの上に転がっていた。回り込んで、その正体を確認する。
 つぶらな瞳に、ゆるやかに弧を描く口。その左右には2本ずつヒゲが生えている。体から生えている短い手のようなもの、エビのようにふたつに分かれた尻尾。……あざらしのぬいぐるみだ。しかも、抱き枕にできそうなほどの大きさがある。
 オレがまじまじとあざらしを見つめていると、寝支度を終えたナマエが寝室にやってきた。

「どうしたんだよ、これ」
「この子?」

 ナマエは白いかたまりを抱き上げ、その顔をオレに見せた。蛍光灯を反射してキラキラと輝いた目をしたあざらしがオレを見つめる。

「宏明だよ」
「は?」

 宏明はオレだけど。
 そう返す前に、ナマエが口を開いた。

「最近、出張が多くて忙しい宏明の代わりのヒロアキくんです。かわいいでしょ?」

 ナマエはヒロアキとやらを腕に抱いたまま、ベッドの縁に腰掛けた。続いて、オレもその隣に座る。

「可愛い……うん、まあ、そうだな」

 ナマエの発言にまだ理解が追いついていないし、オレはぬいぐるみや抱き枕を可愛いと思う感性を持ち合わせていない。でも、上半身が隠れしまうほど大きな白いふわふわを大事そうに抱いているナマエは、正直めちゃくちゃ可愛いと思う。

「一人の夜は少しだけ寂しいから買ったの」
「わりぃ。せめて出張がない日は、もっと早く帰れるようにする」
「ううん、宏明は悪くないよ。それに、案外抱き心地が良くてね。気に入っちゃった」

「今度は宏明のパジャマでも着せようかな」と笑うナマエを抱き寄せようと距離を詰める。だが、ヒロアキ一匹分、ナマエが遠い。ちくしょう。図体も存在感もでかい新入りめ。気に入っているなんて言われたら、取り上げるわけにもいかない。

 それにしても、寂しかったと言うわりには、抱きついてこないしキスもしてこない。出張帰りの日は、いつもベッドに到着すると同時に飛びついてくるのに。どういうことだよ。オレよりもそいつの方がいいのか。

「そんなに気持ちいいのか、こいつ」

 ナマエの柔らかな体に包まれているヒロアキの頬を、人差し指で強めにつつく。「へこむからやめて」と抗議の声が上がった。

「宏明、明日も早いでしょ? 電気消すよ」
「おー……」

 ナマエが電気を消しに行っている間にヒロアキを手に取り、その抱き心地を確かめる。……うん、確かにふわふわで心地良いけど。けどだ。所詮は抱き枕だろ。

 戻ってきたナマエがベッドに転がり、スプリングが軋んだ。暗闇の中から「宏明、どこー?」と声が聞こえる。

「どっちの」
「あざらし」

 そっちかよ。
 渡したくねーけど、ナマエは布団をばふばふ叩きながらヒロアキを探している。オレは心の中で文句を言いながら、ナマエが寝ている方向にヒロアキを投げた。

「ありがとー」
「……なあ」
「ん?」

 暗闇に目が慣れない中で手を伸ばすと、ナマエではないふわふわに指先がぶつかった。仕方なく、そのふわふわを撫でる。

「……本物のオレ、目の前にいるけど」
「……言うの遅くない?」

 少しの沈黙の後、笑いを堪えているかのような声。ナマエがにやにやと笑っている顔が目に浮かんだ。
 なんだよ、オレがいなくて寂しかったんじゃねーのか。オレじゃなくても、そいつで満足なのかよ。

「いらねーならいい」

 そう吐き捨てて、ナマエに背を向ける。ベッドのスプリングが軋むとほぼ同時に「いる! いるよ!」と、焦りと笑いを足したような声が寝室に響いた。

「宏明、いじけないで」
「いじけてねーし」
「出張続きだったでしょ? すごく疲れた顔してたし、早く寝たいかなと思ったの」

 甘えるように二の腕を揺さぶられる。それだけで、今すぐ振り返ってナマエを強く抱き締めたい衝動に駆られる。認めたくねーけど、ナマエを前にすると、オレは随分と単純なようだ。

「こっち向いて。ぎゅってしようよ」

 ねえねえ、と二の腕を揺さぶりながら、柔らかくて温かな体がオレの背中にぴったりとくっついてきた。
 ナマエに根負け、というか、オレが早くナマエに触れたいだけだ。ダセーなオレ、と思いながら寝返りを打つ。すると、オレが抱き締めるよりも先に、ナマエが胸に飛び込んできた。

「宏明が抱き枕にやきもち焼くなんてなあ」
「悪いかよ」
「ううん、かわいい」
「可愛いはやめろ」

 ナマエの背中に手を回して、髪に顔を埋める。ナマエは「くすぐったいよー」とオレにしがみついて、子どものように足をばたつかせた。

「ずっとね、宏明にぎゅってしてほしかったし、ちゅーもしたかった」
「あざらしにはできねーからな」
「ちゅーはできるよ?」
「は?」

 さすがにそこまでは想像していなかった。寂しさを紛らわすために抱いて寝ているだけかと思ったら、まさか、嘘だろ。

「おま……! 抱き枕相手にそんなことまでしてたのかよ?!」
「えっ? だ、だって、宏明の分身だもん!」
「だからって、よくそんな恥ずかしいことを平気で……!」
「だって、だって、宏明だと思ったら、ちゅーしたくて、私……」

 オレが思わず大声を出すと、ナマエは焦ったように言い返してきたが、言葉が徐々に尻すぼみになっていく。

「……引いた?」
「そうは言ってねーだろ」

 ナマエは「うー」と声にならない声を上げて、オレの胸元に顔を埋めた。小さな手は、オレの寝巻きを強く握りしめている。

「ったく……ナマエ」
「……ん」
「……するんだろ、本物と」
「……したい」
「なら、顔上げろ」

 暗闇に慣れた目は、おずおずと顔を上げたナマエの表情をしっかりと捉える。ナマエはオレと視線を合わせないまま、照れ隠しをするかのようにすぐに目を閉じた。

「……3日間分、お願いします」

 消え入りそうな声で、控えめにお願いをされる。
 ナマエが目を閉じていてよかった。今オレは、とんでもなく締まりのない顔をしている。
 オレと同じように赤く染まっているであろう目の前の頬を撫でる。ナマエは続きをせがむように顔を近づけてきた。
 オレは一匹で転がっているヒロアキに心の中で勝利宣言をし、ナマエの柔らかな唇に触れた。

特等席は譲らない