近頃、同じクラスの晴子ちゃんに誘われて、放課後にバスケ部の練習を覗きに行くようになった。練習を見ているのは楽しい。晴子ちゃんとお話するのも楽しい。けれど、気になることがある。
いつも晴子ちゃんの隣にいる、どう見ても不良の四人組。普段は桜木くんも含めて、五人一緒にいる。噂によると、中学の頃はこの辺りの不良の大元締めをしていた集団らしい。身体を張った喧嘩もするようで、よく怪我をしている。
晴子ちゃんは怖がることなく接しているし、「話せば良い人達だってわかるわよう」なんて言うけれど、わかる気がしない。こういうのを偏見、先入観などと呼ぶことは知っている。それでも怖いものは怖い。
その中の一人、水戸洋平くんは、五人の中でも小柄で柔和に見えるけれど、この集団のリーダー格らしい。私のことは晴子ちゃんの友達として認識しているようで、通学路で会えば挨拶をされ、廊下ですれ違えば声をかけられる。そのたびに私は、ぺこりと小さくお辞儀をしてその場を逃げ、晴子ちゃんがいるときはその影に隠れるようにして水戸くんが去るのを待った。
そうして何とかやり過ごしてきたのに。
「何してんの?」
「あ」
放課後に日誌を書いている最中、知っている声が聞こえて顔を上げると、水戸くんが廊下からこちらを覗いていた。びくっ、と心臓が跳ねる。
「ハルコちゃんと一緒じゃねえんだ」
誰か、と咄嗟に教室を見渡したけれど、私と水戸くん以外に誰もいない。
足音がこちらへ近づく。座ったままの私は、逃げることができなかった。
「今日、日直で」
「日誌ちゃんと書いてんだ。えらいな」
目の前に腰掛けた水戸くんに、じっと見つめられる。思わず身を引いたけれど、目を逸らすことができない。何もかもを見透かしているような鋭い眼光は、水戸くんのことを怖いと思ってしまう理由の一つでもあった。
至近距離で水戸くんの顔を見るのは初めてで、緊張で身体に熱がこもり、じわりと汗が滲む。
「オレのこと怖い?」
「え! いや、そんなことは」
だんだんと小さくなる声に、水戸くんが吹き出す。
「大丈夫。取って食ったりしねえから」
怖い噂をたくさん聞いていたけれど、笑顔はかわいい、気がする。気がするだけ。
「あの、水戸くんはどうしてここに……」
部活の時間はすでに始まっている。いつもなら、この時間は体育館にいることが多いはず。
「今日はバイト。もう帰るよ」
その言葉に少し安堵したとき、水戸くんの指が、日誌に書かれた私の名前をなぞった。同時に生々しい傷が目に入る。喧嘩で怪我をしたのだろうか。
「下の名前、初めて知った」
「え?」
「いつも名字かあだ名で呼ばれてるから」
「そ、そうだよね。名前で呼ばれたことって、あまりないかも」
これまで、逃げたり隠れたりしてばかりだったから、水戸くんとちゃんと話したのはこれが初めてだった。私の受け答えに問題はないだろうか。うっかり怒らせてしまったら大変だ。
上目遣いでちらりと様子を伺うと、水戸くんは頬杖をついて微笑みながらこちらを見ていた。いつもより優しい顔に見えなくもない。少しだけ心が軽くなる。こういう表情もするんだ。やっぱり、ちょっとだけ、かわいいかも。
「そっか。じゃあオレは、ナマエちゃんって呼ぼうかな」
「は」
体育館では聞いたことのない穏やかな声で名前を呼ばれ、声を詰まらせる。
水戸くんをかわいいと思ってしまったことも、少し心が緩んでしまったことも見透かされ、付け入れられたような気がした。
時計の針の音がやけに大きく聞こえる。沈黙がとてつもなく長く感じた。
「嫌?」
沈黙を破った水戸くんの指が、もう一度私の名前をなぞる。視線は私の目を捉えたままで、心の奥底まで覗かれているような感覚に陥った。
「……嫌じゃないです」
嫌なんて、言えるわけがない。
「なんで敬語なの」
「ご、ごめん」
「はは、謝らなくていいって」
無言のままこくこくと頷くと、水戸くんは「まだ怖い?」と笑った。
「じゃ、オレそろそろ行くわ。また明日ね、ナマエちゃん」
私の心を散々かき乱して、颯爽と去っていく背中を見送る。水戸くんは教室を出る直前で、「あ」とこちらを振り返った。
「オレのことも洋平って呼んでよ」
それだけ言うと、私の返事も待たず、ひらひらと手を振って行ってしまった。
「何、今の……」
一人になって、どっと疲れがやってきた。胸がばくばくと鳴っている。その音は、恐怖を感じているときのものとは少し違うような気がした。
「話せばわかる」と言った晴子ちゃんの顔が浮かぶ。わからない。いや、わかりたくない、の方が正しいかもしれない。こんなことになるなら、先入観も偏見も持ったままでいい。こもった熱を逃すように、ぶんぶんと頭を振る。
微笑んでいた水戸くんは、私の反応を楽しんでいただけ。だって女の子慣れしていそうだし。普段からあんな風に優しい声でいろんな女の子を誘っているんだ。きっとそう。
そもそも晴子ちゃんだって名前で呼ばれてる。水戸くんにとっては何も特別なことではないのだと思う。それなら、私も気に留めることはない。
それに、今日も生傷があった。また派手な喧嘩をしたに違いない。水戸くんは不良少年。上級生から目をつけられるほど怖い人。そんな人に気を取られるなんて、だめ。絶対にだめ。
そんなことをぐるぐると考えながら職員室に寄って日誌を提出し、体育館へ向かう。
私の姿を見つけ、手を振る晴子ちゃん。その隣は空いている。いつもならホッとするはずなのに、明日ここで名前を呼ばれたらどんな反応をしよう、とそればかり考えていた。
「不良の水戸くん」