会社の前でタクシーを拾うと、見慣れた運転手の顔。「いつもこんな時間まで大変ですね」と声をかけられ、疲れ果てた顔で愛想笑いを返した。
静まり返った住宅街でタクシーを降り、マンションの廊下をなるべく音を立てないように歩く。
「ただいま」
ドアを開けると、玄関と廊下の明かりが点いていた。彰が気を遣ってくれたのだろう。真っ暗な家に迎えられるのは、なんとなく悲しい気持ちになる。
寝室を覗くと、彰はすでに夢の中。大人になっても、寝顔は高校生の頃と変わらずあどけない。けれど、あの頃とは比べ物にならないほど、彼も忙しい日々を過ごしている。きっと、今日も疲れて帰ってきたに違いない。
シャワーを浴びて寝支度を整え、彰が寝ている隣に潜り込んだ。
それから、どのくらい時が経っただろうか。時計の秒針がやけに大きく聞こえる。心身共に疲れ切っているのに、眠気が一向にやってこない。
明日は(もう今日になってしまったけれど)、珍しく彰と私の休みが合い、出かける約束をしていた。近頃は顔を合わせて食事をすることさえできていなかったから、楽しみにしていたのに。
(困ったな……)
真っ暗闇の中で、寝返りを打つ。すると、隣の大きな影がもぞもぞと動いた。
「ん……ナマエ?」
「ごめん、起こしちゃった」
「おかえり」
「ただいま」
「どした? 寝れねーの?」
「うん。でも大丈夫だから」
「んじゃ、ちょっと話そうぜ」
「彰は寝て。疲れてるでしょ?」
「へーき」
眠そうな声してるくせに。
彰は私の頭を撫でると、そのままその手を私の背中に回した。子どもをあやすように、ぽんぽんと優しく叩かれる。
「おつかれさん」
「ありがと」
ふぅ、と小さくため息をつく。家に帰ってきてからも張りつめていた気持ちが、彰のおかげでやっと緩んだような気がした。
「明日休みだろ。無理して寝るこたねーよ」
「でも、出かけるって約束した」
「今度でいい」
「せっかく二人ともお休みなのに」
「オレは嬉しいぜ。家でいちゃいちゃするのも」
「ばか」
「一緒にいられればどこでもいい」
ぎゅうと抱き締められる。全身を包んでくれる体温が心地良くて、ずっとこうしていられたらどんなに幸せだろうと考える。
「……うん、そうだね」
「そうそう」
「ずっとこうしていたいって言ったらさすがに困る?」
「ナマエが嫌だって言ってもオレは離さねーよ」
そのまま、私たちはいろいろな話をした。お互いの近況、嬉しかったこと、悲しかったこと。こうしてゆっくり話すのは本当に久々だった。
固まっていた心が少しずつ溶けていくにつれて、夜明けも近づいてくる。部屋が白んで、彰の輪郭がはっきりと見えてきた。
「彰」
「ん?」
「呼んだだけ」
「ナマエ」
「んー?」
「呼んだだけ」
「ふふ、真似しないでよ」
目を合わせると、彰はふにゃっと笑って、私の頬を撫でた。夜の間は闇に覆われて見えなかった、私の大好きな笑顔。
「なんか、眠くなってきた、かも」
気が緩み、意識がぼんやりとしてきた。甘えるように彰の胸元に擦り寄ると、彰は子どもを寝かしつけるように、私の背中をとんとんとリズムよく叩き始めた。
「おう、おやすみ」
「彰は? 寝ないの?」
「かわいい寝顔が見てーなと思って」
どうやら私が眠るまで見守るつもりらしい。歳を重ねても、何年一緒にいても、彰はずっとやさしいままだ。
「彰、ありがと、大好き」
「ん、オレも」
心はすっかり溶けて、カーテンから覗く空は明るくなっていた。彰の体温を感じながら、私は静かに目を閉じた。
あけほの