「ミョウジさんって好きな人いる?」

 向かい合わせにくっつけた机の向こう側から、仙道くんが私に問いかけた。
 遠くから野球部のかけ声や吹奏楽部の楽器の音が聞こえる。プールのあと耳に水が入ったときのようにくぐもって聞こえるそれらの音とは対照的に、仙道くんの声はくっきりと輪郭を持って私の耳に響いた。
 こういう話をするときは誰もが浮き立って声が弾んだり早口になったりしてしまうものだけれど、仙道くんの声音はいつもと変わらない穏やかなものだった。
 私はというと、驚きのあまりその質問に答えることができず、ただただ目を泳がせている。男の子からこういった類の話を振られたことは、これまでの人生ではじめてだった。
 仙道くんは学校の中でも外でも、とにかく人気がある。好意を告げられたこともたくさんあると思う。けれど、そういった話に自ら言及する姿は見たことがなかった。
 思いもよらない質問を頭の中で反芻し、スカートの上で落ち着きなく両手を擦り合わせる。何か答えなければと微かに口を開くも、うまく言葉が出てこない。女友達の前なら、こんな話題もへっちゃらなのに。
 仙道くんには決して聞こえるはずのない私の心臓の音が、今は聞こえてしまっているのではないかと錯覚する。それほど、私の心臓はずいぶん速く、そして大きく飛び跳ねていた。

「ミョウジさん?」
「……ごめん、ちょっとびっくりした」
「勉強以外のことは質問したらダメだったか?」
「ううん、そういうわけじゃないけど」

 勉強を教えてほしいと声をかけてきたのは仙道くんの方だった。どうやら、三年生が引退して主将となった仙道くんがテストで赤点を取っていては、他の部員に示しがつかない、と越野くんから忠告されたらしい。とはいえ、仙道くんは何でもそつなくこなすタイプだ。授業に遅刻しようがぼんやり窓の外を眺めていようが、これまで赤点は取ったことがないように記憶しているけれど。最近の授業でわからないところでもあったのだろうか。

 一年生の頃、前後の席になったことがきっかけで仙道くんと仲良くなった。おおらかな仙道くんとおしゃべりをするのはとても楽しくて、授業の合間の十分休憩が好きだった。
 二年生でも、私たちは同じクラスになった。近くの席になったことはないものの、クラスメイトとしての交流は続いている。たまに目が合えば、自然と会話が始まる。そんな関係がうれしかった。
 今日も「ミョウジさん、勉強得意だろ?」とにっこり笑う仙道くんに、私は二つ返事で了承した。

 しばらく教科書や問題集とにらめっこをしたあと、
「何か質問ある?」
 と尋ねた。すると、返ってきた答えが、
「ミョウジさんって好きな人いる?」

 仙道くんのこういうマイペースなところは嫌いじゃない。でも、こっちのペースまで乱される。仙道くんの心の中が見えなくて、私の心はそわそわと定位置を保ってくれない。

「好きな人って、友達とか家族じゃなくて恋の話?」

 間を持たせようと、答えがわかりきった質問をする。仙道くんは「そう」と短く答えた。

「いないよ」
「これまでは?」

 私が端的に答えると、すぐに次の質問が飛んでくる。
 思わず「どうしてそんなことを聞くの」と質問返しが頭に浮かんだ。けれど、まずは仙道くんの質問への回答を考えようと思う。

 好きとか恋とか、正直なところ、私もよくわからない。
 瞬時に頭に浮かんだのは、小学生のとき同じクラスだった足の速い子。中学生のとき一緒の委員会に所属していた一つ上の先輩。二人とも優しかったし、一緒にいると楽しくてわくわくした。好きだったけれど、あの感情がはたして恋と呼べるものだったのかどうかはわからない。ちょっとだけ特別な友達、といった感じだったと思う。
 もし、あの感情が恋だというのであれば、私が仙道くんに抱いている感情は……。いや、仙道くんへの感情は、応援している芸能人と触れ合うことができたときの感覚に似ている。実際に芸能人と会ったことはないから、想像だけれど。少し離れた世界にいる人だと思っているから、一緒にいることが余計に楽しいのかもしれない。クラスメイトとはいえ、学校内外の有名人だし。
 恋ではない、と思う。みんなはどうして、「この人に恋をしている」ということがわかるのだろう。まったく不思議だ。

 ノートに書かれた数式を意味もなく何往復もしていた視線をちらりと動かす。仙道くんは私と目が合うと、少しだけ目尻を下げた。同時に、柔らかく口角が上がる。二人で話しているときによく見る表情だ。私はいつまで経っても、なぜかこの表情に慣れることができずにいる。今も、つい目を逸らしてしまった。

「よくわかんねーの」

 黙りこくったままの私に痺れを切らしたのか、仙道くんが口を開いた。

「好きな人がいるってどんな感じ?」
「どんな感じって言われても……」
「最近おかしいんだよな」
「おかしいって、どんなふうに?」
「わかんねーから困ってる」

 仙道くんの返答は、私の問いかけへの答えにはなっていなかった。けれど、仙道くんはきっと、誰かにはじめての感情を抱いている、それだけはわかった。
 ある質問が私の脳裏に浮かんだ。でも、その答えを知りたくない。なぜか私の心が反射的に拒む。それでも、今聞いておかなければもっと後悔をするような気がして、私は恐る恐る口を開いた。

「……仙道くんは、誰かに恋をしてるの?」

 私の問いかけに、仙道くんは少しだけ目を見開いて、ぱちくりと大きなまばたきをした。
 二人の間に沈黙が訪れる。バットが球を弾く音と野球部員が何やら叫んでいる声が、ぼんやりと耳に届いた。

「……こういうの、初めてだからわかんねー」

 仙道くんは「だから、好きって何か教えて」と続けた。
 少し照れくさそうに目を伏せる仙道くんを見て、心臓がゴムボールのように飛び跳ねる。はじめて見る表情だった。仙道くんに、こんな表情をさせる誰かがいるんだ。
 目の前に座っている仙道くんは、手を伸ばせば触れられる距離にいる。なのに、突然突き放されて、一人きりで真っ暗闇に包まれたような感覚に襲われた。さみしい、と思った。どうしてだろう。
 行き場のない気持ちは、今ここでどうすることもできない。どうすれば良いのかもわからない。とりあえず、何事もなかったかのように振る舞おう。
 私は、さっきより重たくなった口をゆっくりと開いた。

「……私も、よくわからないけど」
「ミョウジさんにもわからねーことってあるんだ」
「そりゃあ、あるよ」
「勉強得意なのに」
「それとは関係ない」

 この人を好きだと思う感情、恋とは何かを知っている友達やクラスメイトは周りに数多くいる。彼女たちが楽しげに、かつ悩ましげに話していたことを思い出す。

「どこにいても、ついその人のことが頭に浮かぶんだって」
「うん」
「私の友達はね、好きな人の姿が見えないと寂しそうな表情をするのに、いざ目の前にすると近づくのがこわいって言うの」

 仙道くんはうんうんと頷きながら、静かに私の言葉を聞いている。

「あとは、いつもとちょっと違う自分になっちゃったり」
「いつもと違う自分?」
「部活や勉強がもっと頑張れるような気がするって」
「へえ」
「あと、友達を見ているとよくわかるけど、好きな人と話すときにちょっとだけ早口になったり声が高くなったりしてる」
「……ミョウジさんの経験じゃねーの? 友達の話?」
「だって、私もよくわからないの。好きとか、恋とか」

 放課後の教室の空気って不思議だ。昼間の教室では恥ずかしくて言えないようなことが、すらすらと口から出てくる。
 仙道くんは「そうか」と頷くと、椅子に座り直して私の目をまじまじと見た。穏やかな視線。なのに、射抜くような光が混ざっているような気がする。私はその場に射止められたかのように、仙道くんから目を逸らすことができなかった。

「えっと……仙道くん?」

 視線に耐えられず名前を呼ぶと、仙道くんの唇が微かに動いた。出てくる言葉が予想できず、瞬時に体がこわばる。

「今の話だと、オレはミョウジさんが好きってことになるな」
「え?」
「サンキュ、教えてくれて」

 私の心の奥底まで覗き込むような眼光を湛えていた仙道くんの目が、ふにゃりと崩れる。

「やっぱりミョウジさんに聞いてよかった」

 なんで、とか、どういうこと、とか、具体的な言葉に至らないクエスチョンマークが私の頭の中を埋め尽くした。言葉が追いつかず、はくはくと口を動かす。そんな私をおいてけぼりにして、仙道くんは言葉を続ける。

「ミョウジさんのこと見てると胸がざわざわするっつーか、変な感じになんの」

 仙道くんは「こんなのはじめて」と、困惑と照れが混ざったような苦笑いを見せた。

「ミョウジさんが教室にいるって思ったら、早く家から出られるようになった。勉強だって今まではバスケ部のヤツらに教えてもらってたけど、最近はミョウジさんの顔が浮かぶようになった。ミョウジさんがいいって思ったし、ミョウジさんに褒められるなら勉強もちゃんとやろうと思った」

 真っ暗闇に覆われかけていた私の気持ちは、いつの間にか光が眩しい方向へと導かれていた。仙道くんの言葉を聞いて、心の奥が震えたような気がした。もっともっと今の言葉の続きを聞かせてほしいと思った。こんな気持ちになったのは、はじめてだった。

「今までのオレとちょっとちげーだろ?」

 私は落ち着きなく、何度も首を縦に振る。
 仙道くんは、ふう、と短く息を吐いて目を閉じた。仙道くん越しに見た空は、少し前まで澄んだ青空だったのに、いつの間にか茜色に染まっている。

「……正直、ミョウジさんと話すのちょっとこえー」
「な、なんで?」
「嫌われたくねーもん。近づくのがこわいって、こういうことなんだろうな」

 仙道くんはいつでも飄々と、堂々としているのに。

「そんなふうに思うこともあるんだ」
「ミョウジさんの前でだけな」

「かっこわりーだろ」と、ほんのり頬を染めて笑う仙道くんが、茜色の眩しい夕焼けを背負っている。
 見慣れたいつもの教室に、毎日見ている夕方の空。なのに、今まで見た景色の中で一番美しいと思った。私だけに向けられたこの笑顔をずっと見ていたいと思った。やっぱり、こんなのはじめてだ。
 もしかして私、仙道くんのことが、

「あれ、お前らまだいたのか」

 クラスの前を通りかかった担任の先生が、大きな声で私たちに呼びかける。仙道くんは、首から上だけを先生に向けた。

「あまり遅くなるなよ」

 先生の忠告をどこか人ごとのように聞く。私の視線は、仙道くんに釘付けになっていた。
 仙道くんは先生に向かって、「はーい」と間延びした返事をした。私に視線を戻し、
「わりぃ、遅くなっちまったな」
 と、机の上を片付けはじめる。

 先生の足音が遠ざかっていく。
 突然、仙道くんが「なあ」と、手を止めた。未だ教科書も筆記用具も机の上に出したままの私に向き直る。

「もう一つだけいいか?」
「うん……?」
「ミョウジさん、オレと話すときだけ少し声が高くなる」
「ええっ」
「普段のミョウジさんとちょっとちげーよ」

「気づいてた?」と仙道くんは目尻を下げ、口角をゆるやかに上げた。私の心臓が、どくどくと音を立てはじめる。やっぱりこの表情、何度見ても慣れない。でも、慣れない理由がやっとわかった。仙道くんが教えてくれたから。
 私は生まれてはじめて、恋をしている。

初 恋