あの放課後から、あっという間に一週間が経った。高校生活最後の夏が近づき、仙道くんは大会に向けて忙しい日々を送っている。
これからは放課後の部活も試合も、堂々と応援することができる。ただ、これは気持ちの上での話。あの仙道くんに恋人ができたなんて知られたら、否が応でも話題になってしまうに決まっている。大事な時期に、バスケ以外の話題で騒がれるようなことがあっては、仙道くんにもバスケ部にも申し訳ない。当の本人はあまり気にしていないようだけれど、付き合っていることは内緒にしたいという私の希望を聞き入れてもらった。
そんなわけで、二人で過ごせる機会はなかなか少ない。今日は、お昼休みに一緒に過ごす約束をした。場所は屋上へと続く階段。屋上は鍵が閉められているから、人が来ることはないだろう。
騒がしい廊下を通り抜け、約束の場所へ到着する。そこは予想通り、賑やかな校舎とは切り離されたかのように、ひっそりと静まり返っていた。階段に腰を下ろすとひんやり心地良くて、夏が近づいているのを実感する。
去年の今頃は、こんな日がやって来るなんて思ってもいなかった。特別なものは何も持っていない、平々凡々に生きてきた私が、まさかあのスーパースター仙道彰くんの恋人になるなんて。
頭に思い浮かべた人物は、未だ姿を現さない。理由はわかっている。
四時間目終了のチャイムが鳴り、教室を出ていく直前、同じクラスの女の子たちが何やらひそひそと盛り上がっているのが聞こえてしまったのだ。
──仙道くんは今、私と同じクラスの子に呼び出されている。去年、私と仙道くんと同じクラスだった子。そういえば、あの子もバスケ部の試合をよく観に来ていたっけ。
はあ、とため息を吐いて俯く。付き合っていることを隠している以上、私たちを取り巻く環境が変わらないことはわかっている。それに、内緒にしたいと言ったのは私だ。なのに、心に糸がぐちゃぐちゃと絡まって苦しい。
「ナマエちゃん」
冷たく静まり返っていた空間に、温かな声が響く。私が顔を上げると、階段の踊り場で仙道くんが小さく手を挙げた。
仙道くんはあの日から、私を名前で呼ぶようになった。ちゃん付けはなんだかくすぐったくて、呼び捨てでいいと伝えたけれど、仙道くんは「大事にしたいから」と笑って返した。
「わりぃ、遅くなった」
「ううん、大丈夫」
「お詫びの品」
手渡されたのはいつものジュース。「こっちはおまけ」と渡されたクリームパンは、去年、一度だけ一緒に購買を訪れた際に、私がお気に入りだと言ったものだった。
「やったあ、うれしい」
「ん、よかった」
にこにこと私を見つめる仙道くんを目の前にしても、未だに夢の中の出来事なのではないかと疑ってしまう。たまたま隣の席になったことから始まったこの関係。どうして私を選んでくれたのか、今でもよくわからない。
仙道くんに思いを告げた子の中には、魅力的な子も多くいただろう。さっき仙道くんと一緒にいたであろうあの子も、笑顔が可愛いし、性格も明るい。仙道くんはあの子に、どのような返事をしたのだろう。
私は騒ついた気持ちで仙道くんを見つめながら、サンドイッチを口にした。味はよくわからない。
「どうした? これも食いたい?」
隣に座っている仙道くんが、一口だけ齧った焼きそばパンを差し出す。
「ううん。あのね、仙道くんは」
「彰」
「あ、彰くんは」
「よし」
「どうして私を好きになったの?」
彰くんは、二口目を齧ろうと開いた口をそのままに、一瞬止まった。「うーん」と唸って、焼きそばパンを齧り、「どうしてだろうな」と宙に目をやる。
悩む彰くんを見て、しまった、とすぐに後悔した。自分の中で処理しなければならない漠然とした不安を、彰くんに押しつけてしまった。
「ごめん、やっぱり今のは」
「うまく言葉で言えねーけどさ」
彰くんは私の言葉を遮ると、視線をこちらに戻した。
「学校行くときに毎朝顔が浮かぶのも、明日も明後日も会いてーなと思ったのも、ナマエちゃんが初めてだった」
柔らかいけれど真剣な表情。私の心の奥を覗き込むような視線。「オレのことを諦めないでほしい」と言った、あの時と同じだった。
彰くんの気持ちは充分すぎるほど伝わってくるのに、どうして不安になってしまうのだろう。
この先、私に成り代わる子が現れるかもしれない。私の前に突然現れた彰くんが、同じように突然消えてしまうかもしれない。ずっと、心のどこかで怯えている。
私の表情から何かを読み取ったのか、彰くんは小さく笑って、「どうしたらちゃんと伝わるかな」と私の頭を撫でた。
「……ナマエちゃん、今、何考えてる?」
「ええと」
言葉が続かない。
だって、私の不安を彰くんにぶつけても仕方がない。彰くんは何も悪くないし、言ったところで困らせてしまうだけだ。こういうときに適当にごまかすこともできない、不器用な自分を情けなく思った。
彰くんは私の返答を待ちながら、もぐもぐと口を動かしている。一口、二口、焼きそばパンが消えた。次にコロッケパンの封を開けたところで、彰くんは口を開いた。
「もっとわがままになってもいいんじゃねーの」
「え?」
「ナマエちゃんなら、わがままを言われても振り回されても、なんでもうれしい」
彰くんの目尻が優しく下がる。
胸がきゅう、と鳴る音が聞こえたような気がした。彰くんは私がこの笑顔に弱いこと、知っているのかな。
「だから、全部オレに教えて。オレのことたくさん困らせてよ」
ぐちゃぐちゃに糸が絡まってしまった心ごと、柔らかに包んでくれる彰くん。
私はいつも、彰くんにまんまと絆されてしまう。
「……さっき、女の子に呼び出されてたの知ってた」
「ありゃ」
「仕方ないってわかってるけど、彰くんがどこかに行ってしまうんじゃないかって思っちゃって」
「ごめんな、不安にさせて」
「彰くんが謝ることじゃないよ。でも」
そこまで言って、口をつぐんだ。これ以上彰くんを困らせるようなことは、やはり言うべきではないと自制心が働く。
「でも?」
「ごめん、なんでもない」
ごまかすように二つ目のサンドイッチに手を伸ばす。彰くんはその手を掴むと、「言って」と珍しく語気を強めた。
掴まれた手を見つめる。私が口を開かなければ、いつまでもこのままだろう。彰くんは、たまに強引だ。
黙ったままの私に、「でも、なに?」と、彰くんがもう一度問う。
「…………でも、告白は、全部断って、ほしい」
恐る恐る彰くんを見上げる。
彰くんは「もちろん、そうするさ」と頷き、「オレはナマエちゃんのことしか見てねーよ」と私の頭を撫でた。
大きな手にほっとして、じわ、と胸が温かくなる。絡まっていた糸がほんの少し、解けたような気がした。
「オレのことを信じて、オレのことだけ見てて。他のことは何も考えなくていい」
「そんなこと言われたら、彰くんから離れられなくなっちゃうよ」
「いいぜ。離すつもりもない」
「彰くんの心は海みたいに広いね」
「今度一緒に海行くか」
「行く!」
「はは、やっと笑ってくれた」
「他に言いたいことは?」と聞かれたから、「コロッケパン一口ください」と返すと、「お安い御用」と彰くんは笑った。
それからしばらくして、予鈴が鳴った。
私は、戻りたくない、と言う代わりに、二人の体が触れるか触れないかの距離まで近づいて座り直した。
「部活遅くなる?」
「たぶんな」
「じゃあ、また明日だね」
「わりー」
「……もう一個わがまま言ってもいい?」
「おう」
「もう一回、頭撫でてほしい。明日会えるまでの充電」
こんなお願いをしたのは初めてで、彰くんが目を丸くする。「だめ?」と聞くと、彰くんは「だめなわけねー」と私の手を取り、指を絡ませた。
「……なあ、やっぱり見せびらかしたい」
「なにを?」
「ナマエちゃんのこと」
「せ、せめて大会が終わるまでは内緒に」
「こんなに可愛い恋人がいるのに、内緒にしておくなんてもったいねー」
大きな手が、さっきより優しく私の髪に触れる。
「オレ、どうしようもないくらいナマエちゃんのことが好き」
熱を帯びた瞳、私に触れる指先の感触。絡まった糸の結び目が、またひとつ解ける。
「不安になっちまったら、何回でも好きって言うから」
私は、彰くんの言葉を、瞳を、指先を、ずっと信じていこうと心に決めた。
聞かせてよ